大極殿跡 最後の桜
久しぶりのコラムです。
今日は三月五日、北野天満宮の梅の花もちらほらあっという間に桜の季節が到来します。
当店が所属しております商店街「千本商店街 朱雀大路の街」にもマイナーであまり知られていない桜が2か所ございます。一つは千本出水東に入って30mほどの櫻宮神社と千本丸太町を少し北に上がった西側バス停横に内野児童公園がございます。なぜ内野と呼ばれてたのかは平安京以降 秀吉が京都来るまでこの辺りは「うちの」と呼ばれた荒れたてた土地だったことから命名されたそうです。 (参考地図)
またこの内野児童公園は別名大極殿公園とも呼ばれておりその名の通り大極殿跡地として平安遷都1100年を記念して明治28年石碑が建てられました。
大極殿とは天皇が政務を行ったり、後に賀正・即位などの国家の大礼時に臨御されるところなのですが、西暦1177年の安元の大火で焼失するまではあったそうで跡地が正確には千本丸太町交差点付近だったことと判明しております。
この「大極殿」地元でも名前は知っているが、意外とその公園に石碑が立った経緯などは知らない人が多いようです。
時は大政奉還後京都が戦地で焼け野原になり荒廃し、明治天皇が東京に遷られ京都の産業は疲弊しきっていました。
そこで京都に何とか元気を取り戻そうと起こした事業が、
①琵琶湖疎水事業
②第4回内国勧業博覧会開催(岡崎公園)
③京都舞鶴間の鉄道の建設
④平安遷都1100年事業
根こそぎ京都から東京に持っていかれた産業界の活気を取り戻すべく 絶対成功しなければなりませんでした。 そこで登場するのが湯本文彦氏! (右写真) 湯本氏は『平安通志』を編纂された京都の偉大な功績を残された方なんですが、 ここから私の本当に勝手な想像ですが、当時こういう経緯があったのでは? |
「平安遷都1100年記念」における私の妄想
湯本:「そら平安遷都1100年記念というからには元の場所に大極殿を再建!やっぱこれや!」 「しかも平安京にあった場所に建てるんや!そら盛り上がるでー!」 役人:「元の場所?」 湯本:「そうやー、千本丸太町でんがな!あんたはん知らんのかいな」 役人:「京都の真ん中に建築するんでっか?いやーそやけどもう結構その辺は人が住んでますしねー・・・」 湯本:「それがどないしたんやー、やるっちゅーたらやるねん!」 「住民か商人かしらんけどそこからどいてもらうのがあんたはんやらの仕事でっしゃろ!どいてもらいなはれ・・」 役人:「わかりました 用地買収やってみます、がんばります・・・」 ところがどっこい しばらくすると 役人:「湯本さんやっぱり無理ですわー、なかなか立ち退いてもらえませんねん」 湯本:「地元住民からもボロカス言われてますねん、」 役人:「それに千本丸太町の東南は京都監獄(刑務所)ですし、あんまりロケーションもよろしおまへんし・・・」 湯本:「なんやて・・・困ったな・・・ん・・・参ったなー・・・マジか~どいてくれへんのかいな・・・」 湯本:「しゃーないなー他の場所当たらんとしゃーないなー」「どっか他探せー!」 |
こんな感じのやり取りがあったかどうかは知りませんが、結局 岡崎の草ぼうぼうの野原に平安神宮を建てる事になり、 当初千本丸太町に建てる予定だった大極殿を8分の5サイズで模造した朝堂院大極殿が境内に外拝殿として建っていることを意外に知らない方が地元民でも多いようです。 |
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ついでに平安遷都1100年記念事業の一環で平安神宮~七条間に日本で最初の市電も走らせたり、記念祭として始まった祭りが「時代祭」でもあります。 よく京都の三大祭りとしてテレビのニュースではよく言われてますが、「葵祭り」と他の2つ(時代祭、祇園祭)と同等に扱われること自体個人的には少々疑問なのですが、時代祭は特に新しく歴史が浅いのです。 ちなみにこの史実をしってからの私は、平安神社の前を通るたびに平安神宮には何の恨みもないのですが、 心の中で「この模造神社!千本の大極殿をパクッてるんじゃないよ!」と小さく叫ぶ自分と先人達の功績を称える自分と葛藤いたしております(*^-^) さて、話は戻りますが千本商店街 朱雀大路の街にございます内野児童公園ですが、平成30年中に全面改修がされるようです。 石碑が建っている敷地面積も広く、どこまで残すか定かではないですが、児童遊具や水浴びプールの解体、そして多くの樹木が伐採されるようです。もちろん画像にもあります通り大極殿石碑を囲むソメイヨシノも切り取られると聞いております。今年が最後のようです。 千本丸太町を通られることがあれば、ラストソメイヨシノin大極殿公園へぜひ (2018/3/5) |
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参考地図 | 参照地図:京師地圖1467-1592年 http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/002156222_1.html 参照地図:明治22年頃 1889年 http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/23.html |